明治維新から150年。政府の権威が失墜するために、役者が揃っている感じ。
エイプリルフールなので、何かネタ記事を書いて遊ぼうと、
【速報】安倍総理、政界引退を表明:「自分の発言に責任を取りたい」内閣総辞職、国会議員も辞職引退へ
という、私の長年の願望というより悲願に沿ったフェイクニュースを書こうと思ったのですが、嘘は嫌いなdog personだし、仮に彼が本当に(願わくば近いうちに)退陣することになったとしても、2007年臨時国会冒頭での突然の辞職表明のように、適当なことを言って逃げるんだろうと考えると楽しくないので、特に季節感を意識せずに普通に書くことにします。
2007年の臨時国会冒頭でいきなり辞めると表明したとき、何の理由だったかさっぱり分からなかったし、記憶に残ってないけど、夏の参院選の歴史的惨敗の責任を取ったわけでもなかったことは確かだし、また自分の健康状態が悪いとも言わなかったので、2012年の総裁選で突然舞い戻ってきて「あれは病気だった」と言えるのは、いったいどういう神経なんだろうと思ったのを覚えています。
「だったらそのときそう言えよ!!」と、その不誠実さに怒りを覚える自民党員が少なかったのか、地方票では石破さんがトップだったのに、あろうことか国会議員票でひっくり返すという結果にも、いったい何のために野党で頑張ってきたんだろうと、信じられない思いだったことを昨日のように思い出す。
2007年の参院選で大惨敗を喫し、野党転落のきっかけを作った張本人であり、しかも最も苦しかった野党時代はいったい何をしていたんだというような人物を再度総裁に選ぶ自民党が、私は信じられませんでした。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といっても、なんでそんな大事なことを忘れることができるんだろう。
なぜ自民党が国民から見放されたのかという原因、傲慢さや謙虚さを欠いた政治姿勢を反省していれば、そもそも最も反省すべき人物が総理総裁に返り咲くということは論理的に起こり得ないはず。総裁選に出るくらいは自由だけど、2007年の参院選と2009年の総選挙の悔しさが骨身にしみていれば、彼(現総理)を選ぶという選択肢は絶対にないと、私はいまも思っています。
だけどそれで良かったのかもしれないなと思うのは、もうどう考えても時代に合っていない組織や政治形態を、弥縫策でだましだまし続けるのも、いよいよ今度こそ本当に限界を迎えているように見えるから。
ことしは明治維新から150年ということで、少し前に観たNHKの特番で、江戸幕府の権威が失墜したのは、早い話、「幕府はもうだめだ」と思う人の方が多くなったからなのですよね。
のちの歴史の教科書に「政権の権威は失墜し」と書かれるようなポイントにいまいるのだとしたら、その最後の政権は立派な人物であったり、信頼に値するような謹厳実直な人であっては、教科書の記述が変わってしまう。
だから谷垣さんや石破さんのような良識的な、誠実な人がトップになれなかったんだなと考えると、私は変な形ですがとても納得がいくのです。長年の義憤が昇華される気持ちになるというか。
♪I know Saint Peter won't call my name
Never an honest word
But that was when I ruled the world♪(from "Viva La Vida" by Coldplay)
フェイクニュースなんか書いて多少の憂さ晴らしをするよりも、本当の現実が良い方向へと変わることを意図し、その方向へと歴史が動くように、各人が自分のできることに力を注いでいけば、かなり大きく動くのではと私は信じたい。
通常国会冒頭で、官軍に敗れた会津人を登用した長州の“寛容さ”を施政方針で何の疑問もなく述べるような人物(選挙区は長州の東京育ち)が、この歴史のめぐりあわせに総理を務めているというのも、なかなかドラマチックな天の采配。副総理の麻生さんも大久保利通の玄孫にあたるというのも、こういうドラマ性がないと、歴史の教科書的には面白くないのかもと思えてくる。
歴史を誰が「書いて」いるのかといえば、勝者であったり時の権力者であったりするのだろうけど、歴史を「作って」いるのはこの地上の人間一人ひとり。
自分たちの力であたらしい歴史を創っていくんだという力を、私たちひとりひとりが、その力が自分の中にあることを思い出せば、歴史が大きく動く「この時」に生きていることが、より面白く感じることができるんじゃないかと思うのです。
憲法にしても、「何としても改正したい」と意気込む人たちがいるみたいですが、大多数の国民がそれ(憲法や権威)に力があると思わなければ、何の効力も持たないのにね。