想いをことばに。さくら色の世界

「まつりごと」つれづれと、日々想うことを綴っています

Keep Calm and "#Me Too" Actually:デリカシーのない“オッサン社会”の絶滅を願う

 

福田前財務次官のセクハラ疑惑が、世の中を揺るがしているようですね。

 

f:id:lovely_cherryblossom:20180420144257p:plain

 

 

徳島県「すだちくん」もあらゆるシーンに対応できる芸達者なキャラクターですが、この “Keep Calm” シリーズもいかなる場合においても使えて、私は大好きです。

 

2000年から約15年間、私さくらは永田町(自民党本部)に勤めておりましたが、新人職員時代に「“昔のセクハラ”はもっとひどかった。男性が聞くに堪えないようなことを平気で言ったり、女性に触ったりすることも“普通”だった」と先輩から聞かされ、これはえらいところに来てしまったと思ったものですが、

 

「福田氏のもの」とされる音声を文字にしたものを読むと、それが事実であるならば、「最近のセクハラ」の相場観からしても、まだそんなこと女性に面と向かって言う人がいるんだ、という驚きが発生しつつ、「昔のセクハラ」に相当する事例なのかもしれません。

 

当時は「セクハラ」という概念も周知徹底どころか存在していなかったので、“コミュニケーション”のひとつとカテゴリー分けすべきかもしれませんが、超オッサン社会の永田町において、「それくらいのことでいちいち傷ついてたら、身がもたない」ということで、私自身、在職中はかなり感覚がマヒしていたと思います。

 

「マヒしていた」というより、正確には、もうそういう“デリカシーのない人たちの言動”にいちいち反応しなくて済むように、セクハラに対しては不感症にならざるを得なかった。

 

2014年の夏ごろ、東京都議会でのセクハラ発言が報道で騒がれていたとき、ちょうどアメリカから一時帰国していた友人と食事をしていたとき、彼女はその「女性に対して心ない発言をした都議」に対して真剣に怒っていたのです。私にとっては「まあ、ああいうこと言う人はいっぱいいるから」という“それくらいでいちいち騒いでたら、この世界ではやっていけないよ”感だったのですが、「アメリカではこんな発言はもちろん許されないし、こういうのが普通だなんて、それは相当おかしいよ」という彼女のことばに、私はハッとしたのです。

 

そうだよね、私の“これが普通”って、相当おかしいよね。そして、本来ならば「怒って当然」であることなのに、私はいつからその感情を忘れてしまったんだろう。。。と。

 

それは「永田町の論理」といわれる、「永田町の常識は世間の非常識」であることのひとつであった。だけど私はその中で生き延びるために、仕事をするために、いちいち傷つかないように、不感症になることで身を守っていた。

 

その事実に気付いて程なくして、私は永田町を離れることを決めたのですが、それは「セクハラに対する感覚だけではないな、自分はもう相当世の中からズレてしまっているんだな」という事実に直面する出来事のひとつでした。

 

野田聖子総務大臣もご自身のセクハラ被害体験を語っておられますが、そりゃもうその種のことは山ほどあっただろうな、と思うのです。あの世界に長年いる女性は、国会議員からスタッフレベルに至るまで、いちいち感情を波立てるよりも、無視すること、「なかったこと」として蓋をしてしまった方が手っ取り早いくらい、そういうデリカシーのない言動は日常的に起きている。

 

私の感覚だと、例えば「レイプ」が100として、「何もない」のが0とすると、その間の“多少不快な”言動レベルでは、内心「この野蛮人!!」とイラつきつつ、表面的にはにこやかに“受け流す”のが大人の対応と思ってやっていたのですが、

 

たとえその言動の悪質レベルが10や20程度であっても、あるいは2や3のささいな悪意であっても、「100じゃないから、まあいいか」と頭で納得しようとしても、心はやはり傷ついている。

 

その日々の“我慢”の積み重ねというのは、辞めたあとに緊張が解けるに従い、蓋をしていた感情がドッと溢れてきて、やはりすべての出来事は「なかったこと」にはできないし、自分が感じることは、いかなる感情であっても無視されていいものはないのだと、“大人の対応”で逃げ、自分の感情と向き合わなかった代償を思い知ることになったのです。

 

f:id:lovely_cherryblossom:20180420152044j:plain

 

現在、私はアサーティブネスコーチとして活動していますが、「こんなふうに思う自分の方が悪いのではないか」と思わされて、そのトラップにハマってしまっているクライアントさんの、ある意味“洗脳”を解くこともミッションのひとつ。

 

マタハラ以外、いじめもセクハラもパワハラも全部経験してきたし、たった一人で孤立すると、「こんなふうに思うのは自分だけだから、悪いのは自分なんだ」と責めてしまうことも痛いほど分かる。

 

だからこそ、責められるべきは、傷ついた人ではなく、傷つけた人だろうと、心の底から思うのです。

 

「それくらいのこと」と流されていいことは、この世に何ひとつなく、自分が感じるどんな思いも、それは尊重されるべき大切な感情であり、いい悪いではなく、また否定されたり「なかったこと」にされるべきものではない。

 

そして、学校や職場のいじめであれ、セクハラやパワハラであれ、虐待的な言動を受けてきた人たちは、追い詰められて「助けを求める」ということすら考えられなくなっていたり、また「何があったのか」「どんなことを言われたのか」を周りに訴えることは、心が凍り付くような出来事を思い出すことで、さらに心の傷を抉ることでもある。

 

永田町でのいろんな経験は私の糧になっているけど、デリカシーのない人たち(男女問わず)が絶滅することを本気で願いますし、

 

心ない言動に傷ついた人たちは、傷ついたことを恥じたり責めたりしないでほしいですし、心ある人たちは、自分の周りでおかしな様子に気付いたら、その人にさらなる我慢や忍耐を求めるのではなく、守り助けてあげてほしい。

 

それくらいのことでいちいち騒ぐな、我慢しろ、そんなことで傷ついているようでは、ここではやっていけない。そうやって実際に嫌な思いをしている人たちの心を踏みにじり、どれほどの犠牲を強いてきたことか。

 

長いものに巻かれて保身を図る卑怯者ではなく、惻隠の情を心に持ち行動する心ある勇者が活躍し、称賛される社会であってほしいです。ほんとに。

 

f:id:lovely_cherryblossom:20180418230720j:plain