想いをことばに。さくら色の世界

「まつりごと」つれづれと、日々想うことを綴っています

どんなに目をそらしたくても、それでも考えてしまう。政治は私の初恋の人のよう(注:実際の初恋の人のことを思い出すことはありません)

 

何に「ワクワク」を感じるかというのは人それぞれだけど、私にとってほとんどエクスタシーを感じるのは美味しい食べ物、魂に響く音楽(特にColdplay)、そして知的好奇心を刺激する良質で論理的に美しい論考だ。

 

この論理な美しさに対する感動というのは、死ぬほど理系が苦手な人間ではあるものの、数学者や物理学者が公式や法則に美しさを見出す瞬間と似ているのだろう。論理展開に矛盾がなく、素直に読んでいける、知的誠実に貫かれたパッションを感じる文章は最高に好きだ。

 

そんな文章に出会うと、知性と心に同時に化学反応が起こり、魂に着火する。「自分と話の通じる人はこの世にいないのではないか」「どうせ書いても、分かってもらえないのでは」等々あきらめそうになったとき、天は必ずこういう文章や人に出会わせてくれて、励ましてくれているように感じる。Thank God I feel so blessed!

 

「政治はもういいや、考えたくない」と何度思ったか分からないけど、今日出会った専修大学の岡田憲治教授の論考は、「こういう議論が聞きたかった」と嬉しくなるものだった。

 

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憲法を“改正”したり守ったりすることが目的なのではなく(それが目的となっている教条主義的な人たちは「気憲」や「護憲」と呼ばれる)、現実に合わないところを修正し、また自分たちでその仕組みの運用に主体的にかかわることが大切なのだという、非常に良識的で力強い論考だと思う(特に「気憲」は素晴らしい呼称だ!!)。

 

安全保障でも何でもそうだけど、人間はなぜ、「総論」から「具体論」に話が進むと、思考停止になるんだろう?

 

「そこまで考えたくない(あるいは考える知性がない)」というのが本音(実態)なんだから、改憲や護憲をファッションでやっている方々の主張は、スローガンを叫んでいることが心地よいだけなんだろうなと感じて、まったく響いてこないし、恐らく双方とも、本当に憲法が改正されたり守られたりすることよりも、そのポジションに立って反対の主張(敵)を攻撃しているのが楽しいんだろう。実際に物事が動いたとき、彼らはどういうふうに精神的安定を求めるのか、その崩壊のさまは観察対象として非常に興味深いけど。

 

国や憲法が自分のアイデンティティを支えているのだから、個で立てない、自己肯定感の低いこの種の人々は、ああ、自分の無力感を「強い国家」に求めることで自分を満たそうとしているんだなという人たちは「気憲」、一方の「護憲」の方々は勉強熱心でそこそこ知性もありそうなのに、なぜそんな怪しげな信仰(9条絶対平和教)にハマっていくんだろうという感想をそれぞれ持っているが、どちらも「この世に絶対の正しさ」があると固定化しているのが好きだという共通点がある。

 

思想信条ではなく、実務的な議論が聞きたいし、「ああ、その視点は気が付かなかったな」とか「こういうふうに考えていたけど、世界情勢も動いているから、こうした方がいいよね」とか、変化に対応して柔軟に考え、進みながら変えていくというのが楽しいと思う私は、そういう人たちを変えることは不可能なのだと思う。極論に走る人たちは、それぞれのトラックを並行して走っていたいんだから、気が済むまで、疲れ果てるまで走っていたらいい(「まあ、いつか疲れるだろう」と思っているけど、あの疲れ知らずのバイタリティはどこから湧いてくるんだろうというのも、興味深い)。

 

だけどその中間には、何も考えてなかったり、あるいは考える機会がなかったり、「これまで考えなくても良かったから、これからもそんなことは考えなくてもいいんだ」という人たちがたくさんいて、こういう人たちがワクワクするような楽しい議論というのを提供したいと思うけど、実際実務的な話というのは、総じて面白くはない。理想を掲げて、ワーッと高揚した気分になって、「で、具体的にどうする?」となると、結構めんどくさかったり、継続的に関わることが不可欠だったりするので、日々の生活で忙しい人たちは関心さえ持ってもらえない。

 

政治の世界にいたときも、いまの個人セッションも、有権者やクライアントさんに「分かりやすく」説明することが求められる仕事だけど、具体的な改善点や実務的に何をどうするかという話になると、「話が難しい」「それはできない(あるいは「まだそこまでやりたいと思っていない」)」と言われてしまうのも、共通するパターンがあるように感じる。

 

「相手が喜ぶようなことを言うことが仕事ではない」というのもベースとしては同じで、しかしある一定のところで壁が打ち破れない傾向があると感じる。その共通するもどかしさは、相手が自分で変わろうとするのを待つか、あるいは相手の考え方に変化をもたらすには、どこまで踏み込めばいいかの塩梅。

 

「楽なところに留まっていたい」「難しいことは考えたくない」という人たちに、できるだけ簡単に、分かりやすいように語り掛けること、「こうしてみたらどうですか?」と提案することを心がけていても、いくら言っても通じない相手に言い続けるのは疲れるし、コミットしたくない人たちを動かすのも骨が折れる。

 

だけど、何もしなければ、何も変わらない。

 

このはてなブログを、アメブロ

 

美魂的人生道〜Be Assertive, Be Authentic‼︎〜

 

と別途立ち上げたのは、ちょっと政治の話をすると“引かれる”場所で、また柔らかく書こうと心がけている場で知的な論考を展開しようとして、居心地の悪い思いをしながら書くのは楽しくないので、ちょっと真面目な硬派な文章を、政治経済社会について思ったことを思ったとおりに書きたいと思ったから。

 

そもそもブログを書き始めた2004年頃、私は自民党で広報の仕事の傍ら「さくらの永田町通信」をこっそり運営していたけど、文章を書く練習という目的のほかに「自分のことは、誰にも分かってもらえない」という孤独な理由があった。

 

アメリカ留学から戻ってきて、深刻な逆カルチャーショック(いま考えれば「適応障害」でしかない)に苦しみながら、どうすることもできなくて、本当に苦悩しながら、いろんな心の救いを求めつつ、書くことで一生懸命自分を保っていたような気がするけど、

 

小泉政権時代のおおらかさという時代背景があり、思いがけず好評を頂いて嬉しかった一方、安倍政権になると「なぜ、安倍政権を支持しないんだ」という“ネトウヨ”と呼ばれる人たちの執拗な、しかしいつまでも平行線な議論に疲れ果てたこともあり、政治を語るのは本当に根気と忍耐を要するわりには、「ああ、こんな素敵な考え方をする人もいるんだ」といううれしい驚きにはめったに出会わないという、砂金を探すような世界でもある。

 

だけど、時々、素晴らしい知性と純粋な情熱を持ったびっくりするくらい素敵な人たちもいることを知っている。個人的に知っている大好きな政治家にしても、官僚にしても、スタッフレベルにも、心ある人たちは確かに存在していて、そしてこの世界にも、同じような気持ちでいる人たちは、まったくいないわけじゃない。

 

上記の岡田憲治・専修大学教授のようなロジカルで実践的な知性や、また前川喜平元文部科学省次官のような男気のある素晴らしい知性と人間力を併せ持った方がこの地上に存在しているなんて、それだけで嬉しくなるし、心ある人たちは探せば絶対にいる。だからこそ、そんな小さな、しかし根源的な願いを心に持ちながら、「どこかで分かり合える人がいるんじゃないか」と書いているんだと思う。

 

私がここで書きたいのは、アメブロの前身・The Love Awakens で書いていたような文章。

 

lovely-sakura.cocolog-nifty.com

 

 

政治や社会のありように、見て見ぬふりを決め込んで、余生を静かに過ごすこともできるんだろうけど、だけど「変だ」と思っていることがどんどん進んでいくのを、座視しているわけにはいかない。

 

出会う人たちの心に問いかけ、真実を見極める力をお互いに磨き合い、またより良くこの社会のあり方を変えていくために、自分も小さな働きかけを日々続けていきたい。

 

「教え伝える」という、自分のミッションを全うして、自分が封印してきた知性と知識を解放して、のびのびと書いていこう。

 

このブログを通して、素敵な知性とハートの持ち主たちと、出会えますように。 「ともだちができますように」と、七夕の短冊にそっと願い事を書くような感じだけど。