想いをことばに。さくら色の世界

「まつりごと」つれづれと、日々想うことを綴っています

アンガーマネジメントとアサーティブネスを、政治にも使ってみたら。

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夏至を過ぎ、急に暑くなり、そして国会は延長へ。

 

先週末と昨日、アンガーマネジメント講座を受けてきたのですが、私の怒りというのはやはり現政権が続いていることにあることを確認し、

 

怒りのメカニズムを学ぶと、いまの政治のありようが「私が理想とするあるべき姿」から到底許容し難いレベルでかけ離れているので、持続性がありまた強度の高い怒りとなっているのだと理解できました。

 

それだけ高い理想(最高の徳)を政治に対して持っているからこそ、怒るということでもあるのですよね。しかし国政というのは大きすぎて、自分の力でどうこうできるものでもない。

 

だけど放置しておくだけでは世の中は良くならないし、その怒りの力を何とかこの世を具体的に良くするため建設的な力として使うことはできないかというのが長年の問題意識だったのですが、

 

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特に政治に対する怒りというのは、個人的な不満の捌け口の対象としては絶好の素材であるため、野球を観に行って激しく野次っているような、あるいは逆に自分の劣等感を埋めてくれる権威への過剰な崇拝と化してしまう。

 

こういうバランスの悪さに陥らず、そして左右両極のあいだのmoderate(穏健な中間層)な議論がもっと活発になるためには、いま私が教えているアサーティブネス、そしてこのアンガーマネジメントは政治にも使えると確信しました。

 

 

 

怒るだけでは、現状は変わらないのですね。我慢し続けることも、決して解決にはならない。

 

だからこそ、「なぜ、こんなことになったのか?」と客観的に現状を分析し、「では、どうすればいいのか?」を考えるトレーニングが必要であって、これは日常から国政に至るまで、あらゆる問題に適用できると思うのです。

 

なんであんなに盲目的になれるんだ、というのは左右両方の極端な思想の持ち主たちに感じることですが、特に先の大戦については、私は素朴な感情として、「なぜ、あんな大敗北を喫するような戦争を起こすことになったのか?」と原因と「誰がその決断を行ったのか」という責任の所在がいちばん知りたい。

 

「戦争はあってはならない」だとか「日本は欧米に比べてそんなにひどいことをしていない」という理想論や“結果の解釈”ではなく、事実として無謀な戦争に国民を総動員して大敗したのだから、それはなぜそんなことになったのか、本当に別な道はなかったのか、どうすれば「勝てた」のかの検討を含めて、考えたいといつも思う。

 

「戦争は嫌だ」なんて、そんなの当たり前の感情表明だけでは、物足りない。「では、戦争をしないためには、どうすればいいのか?」の選択肢を、「9条を守ること」以外に論理的に考えてほしいし、

 

先の戦争を美化して悦に入っていても、何の反省も教訓も得られない。「なぜ、こんなひどい負け方をしたんだ」と、その屈辱と悔しさを、過去に学び間違いを繰り返さな努力に向けてほしいと思う。

 

そして、「もし自分が内閣総理大臣だったとしたら、どういう選択肢があるんだろう?そのうえで、どうすればいいんだろう?」ということを一人ひとりが考えることから、当事者意識というのは生まれると思うのです。

 

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そして、もし「枠内」に囚われて身動きが取れないのなら、その「枠」をどう変えればいいのかと、絶えず問うことも必須。

 

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いつだったか、ある大学で石破さんに「なぜ、あなたは自民党なのに、安倍政権を批判するのか」という質問をした学生さんがいたというニュースは、私にとっては衝撃でした。疑問を感じるのはそこなのか、と。

 

「既存の体制」に対する素直を通り越した従順さは、教育の成果なのかは分かりませんが、「自分の頭で考え、自分の意見を持つ」ということは、むかしから日本では好ましいこととはされてきませんでしたが、いまこそ本気で「個」を育むことに舵を切るチャンスなのだとも思うのです。

 

「我慢するしかない」「他に選択肢がない 」という以外に、選択肢を創り出す努力は、政治家だけじゃなく、気骨ある一人ひとりのコミットメントが必要だと思います。

 

あの戦争のときだって、反骨精神あふれる日本人は、確かにいたのですから。

 

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