想いをことばに。さくら色の世界

「まつりごと」つれづれと、日々想うことを綴っています

「日本中がきみのレベルに落ちたら、この世のおわりだぞ!!」(ドラえもん)

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子どもの頃、『からすのパン屋さん』が大好きだったのですが、かこさとしさんが先日帰天されたことで、昔書いた記事を思い出しました。

 

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この素晴らしい絵本のあとがきには、

 

どこでどう取り違えたのか、「民主主義」を少数派を排除黙殺する多数決処理法とか、「論議はさせても実利は渡さぬ」手段とだけ考えるおとながふえ、絶対多数党とか、「数の論理」とかがまかり通る世となってきました。
この本は、少数でもすぐれた考えや案を、狭い利害や自己中心になりやすい多数派が学び、反省する、最も大切な「民主主義の真髄」をとりもどしたいという願いでかいたものです。「民主主義のヌケガラ」と後世から笑われないために、私たち自身が反省したいと思っています。

 

 

と書かれていて、1983年に書かれたこの文章は、現在のこの状況についてのことかと思えるほど、かこさとし先生の警鐘がより深く響いてきます。

 

Twitterで見つけた「アニメで学ぶ安倍政権」が面白かったので、

 

 

 

私さくらの愛読書・ドラえもんの大好きなことばを返信したのですが、

 

 

 

これまたドラえもんの言う通り、日本中が安倍総理(及びその周辺)のレベルに落ちてしまい、「この世の終わり」が近づいているような気がしてならないものの、

 

日本国総理大臣自らが論理を超越したところで開き直っていて、またそんな状況を許してしまっているこの状況を、いったいどうすればいいんだろう。

 

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いつまでも、羊のような有権者でいてはいけないという、この記事で考えていたことを、あきらめてしまわずににもう一度考えて、続きを書きたいと思います。

 

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「真実は癒す力がある」(カリー司教):論理的な矛盾は、真実に基づいた論理的な説明でしか納得できない。

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 (From "I Want Something Just Like This" by The Chainsmokers & Coldplay)

 

 

雲ひとつない青空の美しさと、暗雲垂れ込める地上世界のギャップに付いていけないさくらです。

 

加計学園をめぐり、また愛媛県から新たな文書が提出され、「で、本当のところは一体どういうことで、何が問題なのかを知りたい」という素朴な疑問に加え、

 

「本当は会っていたしそのことについても知っていたんだけど、表向き無関係を貫いていた」というのは、決して無邪気にやっていたわけじゃなく、確信犯だった(本来はやってはいけないことだと知っていた)ということなんじゃないか、ということを逆に証明してしまったのではないかという印象です。

 

「いよいよ安倍退陣か??」と期待が高まるたび、その希望が打ち砕かれるのが嫌で政治を見ないようにしていた、というのは、毎年「今年こそはいけるかも」と思いながら結局ダメ虎でがっかりするから阪神の試合を見ないようにしているのと同じ心理な気がしますが、

 

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彼(現総理)に対する私の怒りというのは、そもそも2007年参院選、さらには2006年に総理総裁就任直後、「郵政造反組」を復党させ、2005年の郵政選挙から1年足らずで“お友達”を呼び戻すという、筋の通らないことをして内閣支持率が急落、というところに遡るのです。(個人的な失望は、幹事長代理時代にまで遡るのですが、これはまた別途)。

 

常に「私」が「公」に優先する彼の政治姿勢は、まったく変わっていないどころか、さらに強化されてきたのですね。恐らく“無念の退陣”後からずっと、自分のプライドを立て直す過程で、何の反省もしていなかった証左ではないかと思う。

 

思い出すだけで腸が煮えくり返るので、あまり振り返りたくなかったのですが、歴史的大惨敗を喫した2007年参院選の安倍総裁第一声@秋葉原(さくら個人メモ)を読み返してみると、「“私の戦い”が始まった」という一言に、機関紙記者として、内心ムカつきながら記事を書いたときの憤怒がよみがえってきました。

 

そもそも2007年の参院選は、「私を選ぶか小沢さんを選ぶかの戦い」と自ら位置付けておきながら、“私の戦い”でいかなる言い訳のしようもないくらい大惨敗を喫してなお、開票速報が始まって1時間後くらい(9時過ぎ)に「安倍総理、続投へ」とテロップが流れて、憤死寸前になったこともまた思い出されます。

 

先日「怒りの解放ワークショップ」を開催したのですが、たぶん私が人生でいちばんしつこく怒り続けているのは、現政権がこれほど長く続いてしまっていることだと思います。プライベートなことは、それなりに気持ちの決着はつけてきたのですが、仕事面では、どうしても納得がいかない。

 

私の“怒りポイント(沸点)”は、「筋の通らないこと」なので、例えば2005年の郵政選挙で“造反組”の復党を許可するなら、それは2006年にやるのではなく、もう一度総選挙を経てからにすればよかった。2007年の参院選で、最初から辞める気がないなら、「私を選ぶか、小沢さんを選ぶか」なんか言わなきゃ良かった。

 

「選挙の信任」という意味では、2005年の総選挙は小泉さんによる解散で、有権者にの信任は小泉さんに対してなので、安倍総理(総裁)は小泉さんの自民党総裁の残り任期を引き継ぎ、自民党の党内事情によって選ばれた人物に過ぎません。だからいずれかの時点で「選挙の信任」を得る必要があったし、それを待たずにさっさと復党させたのは、その中に大切な“お友達”がいたから。

 

機関紙記者というのは党の公式な立場を説明する記事を書くのが仕事なので、こういう筋の通らないことも、筋が通ったことのように書かないといけない。小泉政権時代は、改革スピリットに共感しまくって書いていたので、こういうストレスはほとんどなかったのですが、安倍政権(第一次)のときは個別の政策に没頭することにより、この種の“筋悪”な事象にはできるだけ感情を動かされないように努めていました。

 

このとき仕事の傍らこっそり運営していたブログ「さくらの永田町通信」では、安倍総理について一切言及しなかった。書くとムカつくし、立場上批判することはできないからだったのですが、「なぜ、小泉さんの後を継いだ安倍さんについて書かないのか」と執拗に言ってくる一部の人たちがいて、それがまたストレスでした。

 

彼らに共通するのは「小泉さんの後を継いで、安倍さんもよくやってるじゃないか」という、非常に“寛大な”見方でした。いちいち「筋」を通さなくてもいい一般の人たちだからそんなふうに感じるのかな、と思っていたのですが、論理の一貫性に強いこだわりがあるアスペルガーさくら(当時はそうとは気付いていませんでしたが)、内心積み重なる憤怒は、いま思えば相当大きかったのだと思います。

 

逆にいえば、それだけ一生懸命仕事をしていたからでもあったのですよね。できるだけ分かりやすく伝えたい、政治の現場を知ってもらいたいと思って、機関紙もブログも記事を書いていたので、そういう理屈の立たないことが起きると、筋の通らない記事にならざるを得ない。言い訳がましい、後味の悪いことは書きたくないし、自分の気持ちに嘘もつきたくなかったので、「触れない」という立場を貫いていた当時の私は、個人的にも政治的にも、自分なりに筋を通そうとするとそうするしかなかったのです。

 

とはいえ我慢していると必ずあとで大噴火するというもので(噴火の度合い=我慢の大きさ×押さえてきた時間)、1年くらいムカムカしながらやってきたので、2007参院選での私の憤怒は頂点に達していました。まさかの総裁(総理)続投が決まり、吐き捨てるような思いで記事を書き殴り、論理的に説明のつかない状況のまま秋の臨時国会を迎え、そして突然の辞意表明という、思い出しても怒りのマグマに着火する一連の出来事は、一生懸命頑張った自民党員ならなおのこと、絶対に忘れないだろうと思っていたのです。

 

なのに2012年、まさかの再登板という悪夢に、私は完全に自分の中で気持ちが切れてしまった。ちょうど議長秘書として出向して、その後しばらくして一旦党に戻りましたが、「もうこれ以上続けるのは無理」だと心底思った。

 

党職員としては、誰が総裁であっても同じようにお仕えすることができる人材であるべきなので、自分の気持ちと折り合いをつけるには、そこを去るしかなかった。心身ともに限界だったし、個人的にも政治的にももう無理だと思い決めることができたのは、そういう筋の通らない政治状況だったからでもある。

 

第二次政権があれから5年半も続くなんて、いまだ信じられない思いがしていますが、役所の皆さんも、自分の職業倫理が揺らいでるんだろうなと思います。彼らが揺るがしているのではなく、真面目にやっている人たちが大切にしていたことを、一部の人たちが踏みにじっているという意味で。

 

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「あらゆる感情はまずきっちりと感じること」の重要性、そのうえでその怒りや悲しみや悔しさの放出の仕方をどうコントロールし、前向きな力として使うかということを私は教えていますが、最後に私に根深く残っているのはこの政治的な怒りであることに気付いた。

 

何かに当たり散らすのもみっともないし、我慢しすぎて精神不安定になるのも良くないし、かといって見て見ぬふりを続けていても、いつまでも現政権は続いている。

 

私は単なる憎しみや感情論を叫びたいわけじゃない。ただ、これまで私がずっと、干支を一周回ってもなお納得できないこれらの疑問に対して、政治的にも政策的にも、根源的に筋の通らない数々のことは、感情ではなくて論理矛盾であり、感情にしても論理にしても、それを解決するには「理解」と「受容」が必要なのは同じ。

 

感情の消化と昇華は、できなくはない。「あのときは、それが自分の精一杯だった」と。しかし論理の未消化は、いつまでたっても気持ちが悪いままで続いている。

 

ハリー王子とメーガンさんの結婚式で“power in love”と“love is the way”を情熱的に説かれたカリー司教が、英国人ジャーナリストのピアーズ・モーガンについてどう思うかを聞かれた答えの中でおっしゃった、“the healing power of the truth”(真実が持つ癒しの力)が心に響いた。

 

<さくら書き起こし>

Oh, he is a wonderful journalist and presenter, always seeking the healing power of the truth.

What you guys, Piers Morgans and others do, as you see, to find the truth, and speak the truth, and help us to see the truth, and helping all of us to see that, to find a better way.

He does that, Gosh, as well not better than any others.

(Bishop Curry, asked what he thinks of Piers Morgan)

   (動画はこちら)

 

 真実には癒しの力がある。私が知りたいのはそれだけだ。本当のことが、知りたい。そして本当のことが分かったら、“better way”へと舵を切りたい。

 

だから書くしかないと思うし、書くことで一時的に憤怒がスッキリするのではなく、論理的にクリアになることで、青空のようにさわやかな気持ちになりたいと思うのです。

 

真実を求め、そのうえで“better way”は何かを議論できる人たちと出会えるといいな、と願いながら。

 

建設的に政治を語るための、人間のエネルギー問題:不平不満をぶつけて終わりではなく、「どうすれば良くなるか」を考えよう。

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エネルギー問題、というと原子力などの思い浮かべるかもしれませんが、長年(約15年)政界にいた私さくら、人間のエネルギー問題について、かなり真剣に研究してきました。

 

「あの人はエネルギッシュだ」というように、人の持つエネルギーというのは目には見えなくても、感じられるものでありますよね。政治家というのは、やはり普通の人に比べたら、圧倒的にエネルギーが大きいのですが、有権者の前では「いい人」でいようと“無理している”人たちは、周りに八つ当たりしなければ神経が保てないのか、某女性議員のように大災害を巻き起こしたり。

 

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ただこれは政界に限った話ではなく、人類全体としての問題であるというのが私の問題意識で、長年の実例研究に基づき、またエネルギー問題(人)を解決する方法の一環として、今週日曜日、「怒りの解放」をテーマにしたワークショップを開催するのですが、

 

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怒りや悲しみ、悔しさや屈辱などいかなる感情も、「なかったこと」にして蓋をしてしまうことはないのですね。どんな感情であっても、それは自分が感じたことであり、それを「こんなふうに感じちゃいけない」などと“ジャッジ”して、また自分を責めたり、あるいは逆に他人に八つ当たりすることでストレスを発散する“迷惑施設化”人類になってはいけません。

 

ものすごく正直に言うと、政治はそういう「不満の捌け口」として、格好の標的のひとつだと思うのです。

 

自民党に勤めていたとき、何が辛かったというと、論理ではなく、不平不満の感情を思いきりぶつけられること。

 

とりわけ極端なご意見、罵詈雑言の類は、「政治を語るふりをしながら、単に日頃のストレスを解消しているだけじゃないか」と感じることが多かった。しかし政党職員としての立場上、邪険にすることもできない。お客様(有権者)の声には真摯に耳を傾けることは大切だと思いながら、表面的には政治を語りながら、個人的な不平不満のエネルギーをぶちまける場として使っている人たちには、閉口していました。

 

これは芸能人に対するバッシングや、プロ野球などスポーツ選手に対する激しいヤジに共通するものであり、公人(public figure)にはどんなことを言ってもいい、という風潮は健全ではないし、「政治家になって、国を良くしたい」と思う良識的な人の参入を阻んでしまい、結果的により良い政治の実現を遠のかせてしまう。

 

この世には、そうした人の悪意やどす黒い感情などの“高濃度汚染地”となっているところが結構あると思うのです。サラリーマンの不平不満が渦巻く新橋とか、絶対近寄りたくなかったですし、ストレスの多い現代社会では“歩く迷惑施設”と化しているな人もかなりの数いらっしゃるので、原発だけでなく、この人のエネルギー問題は、何とかならないんだろうかとずっと思っていました。

 

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 エネルギー的に、いままでで最高に嫌だったのが、一時期毎週水曜日のお昼頃あらわれて、自民党本部に向かって叫ぶ“自称国士”のヘイトスピーチ。これは本当に、おひるご飯が不味くなるからやめてほしいと本気で願っていたし、そういう言い方したら、いくらその論が良かったとしても(論旨の筋的にも傾聴に値するものではなかったですが)、本当に話を聞いてもらいたいなら、もっと言い方があるだろうと、内心思っていました。

 

右翼の街宣車も時々あらわれていましたが、たまに「この人、上手いな」と感じる、つい引き込まれて聞いてしまう名調子の演説をされる方もいて、同じ叫ぶのでも、やはり本当に聞いてもらいたければ、叫び方というものがあると感じていました。

 

「論旨はムチャクチャだけど、あの表現は面白い」と、永田町住民がネタにして笑ってしまうような、ユーモアがあるのはいいですよね。最近だと、北朝鮮労働党機関紙の「1億年経っても、神聖な地に足を踏み入れることはできない」という表現が個人的にはツボでした。自民党の機関紙はああいう扇動感あふれる表現は使わず、党の公式記録という感じで作ってましたし、機関紙記者時代、産経新聞のような記事を書けと言われて、「こんな論調で、書けない」と客観報道を貫いていたことを懐かしく思い出します。

 

「なるほど」と思うような野次であったり、ユーモアを含んだ、論理的かつ粋な丁々発止のやりとりが国会論戦で行われるなら、歌舞伎のように人気が出るかもしれないと思ったりしますが、そういう意味でなぜあれだけ小泉政権が面白かったかというと、当時の自民党政治家には千両役者がたくさんいたからだろうと思うのです。 

 

瞬発力はあるけど持続力に欠ける私さくら、感情面においては、「執念深く怒り続ける」ということはあまりないのですが、

 

政治的な面においては、安倍政権に対して、2006年の第一次政権成立から、干支を一周してまだなお許しがたいし、野党転落のきっかけを作った人物が、なぜまさかの再登板などということが起こるのか、論理的にも思想的にも理解できず、谷垣総理実現のために一生懸命頑張った野党時代の努力も、議会制民主主義を踏みにじ私の怒りの炎はくすぶり続け、決して消えることはないという、意外と執念深い一面に気付きます。

 

政治の世界を離れて、コミュニケーションや英語を教えるということを通じて、「まずは何でもいいから、自分の意見を持つこと」を私は有権者(クライアントさん)にコーチングしています。健全な自尊心があって初めて、被害者意識からも自信のなさの裏返しの傲慢からも自由になれる。

 

世の中のバランスの悪い自尊心に起因する「認知の歪み」としか言いようがない“論説”がまかり通っているのを目にするたび、愛国心ではなく、「健全な自尊心」を育むことで、政治と有権者は対等に、そして建設的な対話ができるというのは私の信念であり、また確信に至るようになりました。

 

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考えるのも書くのもなかなか骨が折れるので、なかなか書き進まなかったし、何度も挫折してきたのですが、それでも歩みを止めてしまわずに、思考は止まってないのだから、良識的な人たちが行動されているように、私も少しずつでも世の中に対する働きかけを続けていくしかないと思っています。

 

「中にいた人」さくらの文章が、政治や人生を考えるにあたって、何かのお役に立てることを願って。