想いをことばに。さくら色の世界

「まつりごと」つれづれと、日々想うことを綴っています

職業倫理は崩壊し、“point of no return”を越え、そして二極化の世界へ。

 

一週間ほど、ブログの更新が空いてしまいました。

 

はてなブログの「思いは言葉に。」からインスピレーションを受けて、「想いをことばに。」というタイトルにしたというのに、思いがことばに「できなかった」のか、あるいはことばに「成らなかった」のか。

 

言語化するのにしばらくかかったのは、ああ、本当に「終わった」んだ。。。という、これまで大切にしていた世界が、崩壊していくさまを実際に目の当たりにしている衝撃だったのかもしれない。

 

辻褄を合わせるために、一旦オフィシャルになっていた文書を後からこっそり書き換える。“無理筋”を通すために、口裏合わせを依頼する。「存在しない」と言っていたものが、出てくる。

 

こういうことは、「絶対やってはいけないこと」のひとつだと思っていたけど、永田町勤めの約15年間、私が大切に守ってきた職業倫理は、永田町や霞が関ではすっかり過去のものになってしまったんだなあ。。。という、言いようのないやるせなさと悲しみの一方、

 

時代は本当に、“point of no return”を越えてしまったんだなあ。。。という、未知の世界に突入した武者震いと半々という感じではあるのだけど。

 

文書の中にあった「本件の特殊性」(森友)「首相案件」(加計)がすべてだと思うけど、なぜ、こういうことになるんだろうという素朴な疑問は、こちらの記事で書いたとおり、いまも変わらない。

 

ameblo.jp

 

私は自民党時代、広報で機関紙記者を5年半やっていたので、役所が政調の会議で出してくるデータや資料は、彼らの政策に都合のいいように編集して使ってる感はあったけど、元々のデータがいい加減だというところまでは疑ったことはなかった。

 

働き方改革関連法案の元となったデータがそもそも適当なものだった、という時点で、その政策に対してだけでなく、そういういい加減なものを出してきて平気な役所に対する信頼性は地に落ちる。

 

「ここでそんなことをしてるなら、当然他でもやっているんだろう」と思われる。そこが「“事実を超えたところ”で他人に持たれる印象」で、単純なミスとはいえない種類の失態であればあるほど、その他のまともな人や政策までもが疑いの対象になってしまう。

 

現政権を正当化するために、知的誠実さと良心に基づいて仕事をしたいと思えば、「私には、できません」と言うしかない。

 

その選択肢は組織人として許されないから仕方なくやってるのか、それとも自ら望んでやってるのかは分からない。「全体=国家」を守るためにという、その一点で折れそうな心を奮い立たせている心ある人たちだっているんだと思うけど、結局のところ、そういう目先の弥縫策で誤魔化そうとすることにより、悪に加担してしまうことになる。

 

私の中にある「終了感」は、これらの問題の「幕引き」ではなく、「公」に対する信頼が地に落ちてしまったという意味で、「終わった」という感じ。

 

このあいだ、私はこんなふうにツイートしてみたけど、

 

 

もうこの国は、世界は、大きな変化の方向へ向かって、引き返せないところに来ているし、それでもこの現状を維持したい人たちと、現状を打破していこうという気概のある人たちとは、次元が違いすぎて、交差し得ないと感じる。

 

現政権擁護派も、現政権批判派も、両方の目に映っている風景は、ことばの上では同じ「こんな人たち」だ。よく言われている二極化の世界、パラレルワールドというのは、こういうことなんだろう。